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鞘が決め手紅葉山の敵討ち

鞘が決め手紅葉山の敵討ち
 東村山出身の有名人と聞かれれば、今なら誰もが志村けんと答えるでしょうけれど、明治時代にいちばん有名だったのは、久米川村(現在の久米川町)の川上行義という人でした。
 事の発端は明治12(1879)、行義の父親だった名主の助左衛門が、祭の喧嘩を仲裁に行った帰り道に何者かに殺されたことでした。当時、陸軍軍曹として熊本鎮台にいた息子の行義は、助左衛門の子分格の侠客だった、“稲熊の親分”こと橋本熊三に協力してもらい、殺害現場に落ちていた刀の鞘をもとに犯人を割り出します。
 軍を脱走して3ヶ月間逃げ回ったあと、南秋津村の紅葉山で犯人の小学校教員・高木千代三郎を殺害しました。行義は忠臣蔵に倣って千代三郎の首を斬って父の墓前に捧げ、翌日、正装に身を包んで田無村の警察分署に出頭しました。この事件を知った新聞各紙がすぐさま飛び付いて、「軍曹の仇討ち」「南秋津村の敵討ち」と大々的に報じたため、行義は一躍全国的な有名人になりました。「川上行義探偵実話」「川上行義復讐新話」などの実録小説が相次いで出版されたり、行義を主人公にした芝居が全国各地で上演されたほか、「川上騒動くどき節」という歌まで流行しました。
 もうちょっと詳しく知りたい人は、中村彰彦著『禁じられた敵討』(文芸春秋刊/文春文庫)を本屋さんで買って読んでみませうね。

教育の荒廃ホームレス殺人事件

教育の荒廃ホームレス殺人事件
 東村山市では近年、さまざまな事件が勃発していますが、市民の心胆を寒からしめた最も衝撃的な事件は、2002125日に起きた、市内の少年の一団が、路上生活者の鈴木邦彦さん(55)に石油ストーブを投げつけたり、金属製ロッカーの下敷きにしたりするなどして、外傷性ショックで死亡させた“ホームレス暴行死事件”だったと思います。
 私たち市民がいちばん驚いたのは、暴行計画を立てたのが中学2年生の4人の少年であったことと、少年たちが図書館で騒いでいたことに対して善意で注意した男性を、逆恨みから死に至らしめてしまった事実でした。
 特に市の教育委員会が蒙った衝撃は想像以上で、事件後の1年間はこぞって「喪中でゴザイマス」と頭を下げてるような神経ピリピリ状態で、“市報ひがしむらやま”や“きょういく東村山”などの広報紙は、弔辞やお詫びのような記事や、教育従事者の教育体制の刷新を誓う決意表明で埋め尽くされました。
 時代背景を考慮すれば、こうした事件が東村山で起きなければならなかった必然性はないと思いますけど、私たちとしては「いったい学校は子供たちに何を教えてるんじゃいっ!!」という思いを日に日に新たにするんですのよね。
 文部省のカリキュラム重視による教育の形骸化は、子供たちだけではなく現場の教師たちのモチベーションをも奪い続けています。「ヒトサマにご迷惑をかけるようなことはしちゃいけませんよ」と、ウチの犬たちにも毎日言い聞かせてるんですけどね。
教育というものはホントにむずかしいもんだと思いますわんこ。

夢を現実にした銀河鉄道

夢を現実にした銀河鉄道
 日本全国にはたくさんのバス会社がありますけど、その中でも日本一、いや、世界一小さなバス会社が東村山市にあります。
 社長の山本宏昭さん(1963年生まれ)は、市内の青葉町の酒屋の一人息子として生まれましたが、幼少の頃から尋常ではないバス好きで、高校生の自由研究では「日本のバス」をテーマに採り上げ、クラス代表として全校生徒の前で発表しました。21歳の時に史上最年少で大型二種免許を取得。その後の大学時代のアルバイト先もすべてバス会社という徹底ぶりでした。
 卒業後、両親の懇願に負けていったんは実家の酒屋を継ぎますが、バスへの思いはとうてい断ちがたく、199911月に“銀河鉄道株式会社”を設立。社名は設立年である1999年の“999”から、松本零士の“銀河鉄道999”にちなんで命名されたそうです。2001年、念願の一般貸切旅客自動車運送事業の認可が出て営業を開始。現在、所有するバスは全部で16台、東村山市と小平市で3系統の路線バスを運行しています。社長自らが運転手の1人としてシフトをこなす一方で、暇があると全国を駆け回って古い車体のバスを探し歩いています。
 社長の目下の夢は、みんなが驚くようなレトロな中古バスを購入・整備して、現役の路線バスとして復活させることだそうです。

★銀河鉄道株式会社ホームページ

迷路の終点北山公園

迷路の終点北山公園
 公園としては決して広くはないんですけど、背景に広がる八国山の緑、のどかに走る単線の西武鉄道西武園線、園内の田んぼや涼風ただよう北川の流れなどと相俟って、なぜか郷愁をかき立てられる北山公園。
 でも、もし、初めて訪れるハイカーの団体100人が「午前10時に北山公園で待ち合わせ」なんていうことになったら、たぶん50人は遅刻するんじゃないかと思います。おそらく、10人は行方不明になって当日は会えませんね。1人ぐらいは小金井公園で待ってたりするかもしれません。それほど北山公園周辺の道というのは驚くほど入り組んでいて、地元住民の私も正確な位置関係を把握するのに丸2年かかりました。
 いちおう案内板はあるんですけど、想像以上の紆余曲折の連続なので、だんだん「本当にこれでいいのかしら?」という気になってくるんですね。だからといって、「ちょっとコッチに曲がってみよう」なんて思ったらもうおしまいです。10分も歩くとさっき見たはずの案内板の前に立っているに違いありません。
 狸や狐に化かされているんじゃないかという説もありますが、狐はともかく狸のほうはホントにいるようですから、決して迷信だと片付けることはできません。こりゃもうね、どっかの役所が庁舎内でやっているように、道路に赤い線でも引いて誘導したほうがいいかもしれませんわね。

みんなで読もう東村山昔語り

みんなで読もう東村山昔語り
 私は歴史辞典や日本史の教科書なんかに書かれてる、公的・標準語的歴史にはほとんど興味がありませんけど、ついちょっと前までは当たり前のことだった、民衆の魂の記録とも言うべき民俗学的歴史には途轍もなく惹かれます。
 そこで登場するのが、東村山郷土研究会発行の「東村山ふるさと昔語り」(1,200)なんですね。コレを読んで心の底から実感したのは、やっぱり東村山村はトウの昔からとっくにド田舎で、そんなところにポツンと国宝(正福寺千体地蔵堂)があるのは、何をどう考えてもフッシギッダナーッということですね。
 麦飯や粟飯が常食でうどんが最高のご馳走だったとか、機織りの道具が凍らないように夜は帯にはさんで寝たとか、せっかく育てた蚕の繭が相場の下落で二束三文にしか売れなかったとか、狭山湖の築造工事の日雇い人足に出てなんとか食いつないだとか、一昼夜かけてリヤカーで八王子や中野にサツマイモを売りに行ったとか、ほとんど全編に農地解放前の小作農民の悲哀が漂っていて、「隔世の感」だとか「今は考えられないでしょうが」だとか、そんな言葉のオンパレードなんですね。ホントにもう、そんな貧しいニッポンはすでに異次元の世界です。だから余計に惹かれるのかもしれませんけどね。
 買わなくても市内の図書館には必ずあるので、興味のある方はぜひ1度お読み下さいましね。

志村けんが阻止した市名改称運動

志村けんが阻止した市名改称運動
 “東村山”という地名は、“村山郷”と呼ばれていた地域の東にあったことから、大日本帝国憲法が発布された1889(明治22)、町制施行の時に付けられた由緒正しい名前なんですけど、実は市名を改称しようという運動が2回起きています。
 最初は東京オリンピックの開催された1964(昭和39)、市制施行にともなって一部の町会議員や住民が、全国的に無名の町を一躍有名にしようということで、「新市名は“東京市”にしよう!!」って言い出したんですね。よりにもよって東京市にすることはないと思いますけど、それでもなんとか大運動を展開したあげく、自治省に「そんなのダメ!!」と言われて即やめたんですよ。まあ、東村山らしいっちゃあ、らしいんですけどね。
 2回目はだいたい1975年頃っていうから、ザ・ピーナッツが引退した年なんですけどね、やっぱり市の名称を変えようという運動が起こりました。なんでかっていうと、1970年代前半っていうのは、日本全国の町々村々が次々と市制を施行したもんで、目新しい名前の市が続々と誕生していたわけですよ。東村山は明治時代からずうっと東村山のままだったもんで、なんかウラヤマシィナァということで、やっぱり変えようという機運が盛り上がったんですね。でも、その話もある事情で立ち消えになりました。志村けんの“東村山音頭”がブームになったオカゲで、今さら変えられないほど有名になっちゃったからです。
 もし、この世に志村けんがいなかったら、どんな市名になってたかとっても気になるんですけどね。

駅と町が離れてる久米川の怪

駅と町が離れてる久米川の怪
 東村山市には、“久米川町”という地名と“久米川駅”という駅があります。でも、久米川町に行こうと思って久米川駅で降りると大変なことになります。久米川町は、久米川駅じゃなくて東村山駅の近くにあるのです。
 じゃあ、なぜ、久米川町から遠いのに久米川駅という駅名になってるのかというと、少し話はややっこしいのですが、明治27年の旧川越鉄道の開業時には、今の東村山駅が“久米川仮駅”という名前だったのです。旧久米川村にあったから仮にそう名付けたんですね。
 翌年、その最初の久米川仮駅が東村山駅という名前に変わりました。昭和2年に現在の久米川駅の場所に新しく駅を作ることになって、みんなで駅名を考えたのですが、なかなかいいアイデアが浮かばなかったんですね。そこで、誰かが「昔、東村山駅は久米川駅だったんだから、おんなじ久米川駅でいいんじゃねえの?」と言ったら、「んだな」「んだな」とみんなで賛成して決まったわけです。
 話がそれで終わってたらよかったのですが、昭和27年の市制施行の際に、市域の中央に南北に広がっていた当時の“大字久米川”が、青葉町・栄町・本町・久米川町の4つに分かれたんですけど、現在の久米川駅周辺はみんな“栄町”になってしまったのです。せめてその時に“久米川駅”の名前を変えればよかったんですけど、「もう四半世紀経っちゃんたんだからしかたあんべ」ということで、久米川町から遠い久米川駅は今に至るまで残ってるわけです。
 この、なーんとも、のどかというか脳天気というか、そこはかとない“田舎”の匂いを愛せるかどうかが、東村山を理解できるか否かの境目になるんじゃないでしょうかしらね。

必死で浄化した野火止用水

必死で浄化した野火止用水
 東村山市の南部を、ほぼ小平市との境界に沿って流れている“野火止用水”は、明暦元年(1655年)、川越藩主松平信綱の命により玉川上水の分水として開削されました。信綱が伊豆守であったことから、別名“伊豆殿堀”とも呼ばれています。およそ300年間にわたって、飲料水・生活用水・農業用水として利用されてきました。
 しかし、戦後になると、生活排水が流入するようになったため、飲料水や生活用水としての利用ができなくなり、さらに水不足による分水中止が追い討ちをかけるかたちで、水質の悪化が急速に進みました。1980年頃には、野火止用水は悪臭のプーンと漂う、みんなに嫌われるドブ川と化していました。
 これをナントカしようと積極的に立ち上がったのが埼玉県新座市でした。新座市には、重要な観光資源である臨済宗の古刹“平林寺”があり、野火止用水はその西側に沿って流れています。古刹の隣がドブ川のまんまじゃ、結婚式場の隣に火葬場があるようなもんで、イメージ・ダウンでたまったもんじゃなかったんですわね。新座市の強い働きかけのオカゲで、埼玉県の“野火止用水復原対策基本計画”と東京都の“清流復活事業”に莫大な予算が割かれ、大量の高度下水処理水を流すことで、1984年にかつての清流がメデタク復活しました。
 なんだか瓢箪から駒のように、結果的に市内の野火止用水を浄化してもらった東大和・東村山・小平・東久留米・清瀬・志木・朝霞の7市は、音頭をとってくれた新座市には足を向けて寝られないことになるんですのよねーっ。

元の木阿弥最後のパレード盗作事件

元の木阿弥最後のパレード盗作事件
 サンクチュアリ・パブリッシングから20092月に出版された単行本「最後のパレード〜ディズニーランドで本当にあった心温まる話」をめぐって、読売新聞・日本テレビを初めとする報道各社は、オリエンタルランドに対しておこなった取材に基づき、同年4月、同著作物に濃厚な盗作疑惑があることをいっせいに報道しました。
 それだけなら「ふーん」という話で終わってたんですけどね、著作者である中村克(まさる)氏が東村山市美住町在住のコンサルタント会社の社長で、2006年の住民投票条例設置の署名運動でトラブル・メーカーとして名を馳せた人物で、しかもその後は草の根市民クラブとつるんでやってたブログ荒らしの張本人だったことがわかって、みんなでハラホロヒレハレとなっちゃったワケですね。
 この人、エピソードに事欠かない人で、盗作報道直後にブログで焼身自殺をほのめかして警察の事情聴取を受けたり、東村山の寿司屋で泥酔して無銭飲食で検挙されたり、ブログでは一切謝罪せずに荒唐無稽な自己弁護を繰り返すばかりで、ホントに打たれ弱いというか1人で大騒ぎして自滅して姿を消してしまいました。
 初回の印税(推定4千万円)はシッカリ受け取ったようですから、野垂れ死にはしやしないと思いますけど、コンサルタント&出版業界からは総スカン状態ですから、今ごろドコでナニをしていらっしゃるんでしょーかしらね。
昔はこーんな困ったオジサンが何人か町内にいたような気がしますけど、末は我が身にならないようによゐこのみんなも気を付けましょうね。

銭形平次も知ってる豊島屋酒造

銭形平次も知ってる豊島屋酒造
 ま、野村胡堂原作の“銭形平次捕物帖”はフィクションですから、実在する店との関わりがあるわけではないんですけど、もし平次が実在の人物だったら、平次の家は神田明神下の長屋ですから、神田橋そばの鎌倉河岸にあった酒屋「豊島屋十右衛門」を知らないはずはないという話でございましてね。
 豊島屋十右衛門は、慶長元年(1596)に酒屋兼一杯呑み屋をはじめ、のちに江戸では嚆矢となる豆腐田楽や白酒の製造・販売を手がけました。この豆腐田楽と白酒が、江戸の市民にたいへんな好評を博したといいます。
 特に白酒の評判は大変なもので、安藤広重の「絵本江戸土産」、長谷川雪旦の「江戸名所図会」、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」、歌舞伎「助六」にも登場しています。以後、豊島屋は卸商・醸造元として発展しましたが、昭和の初期になって、井戸水の水質が悪化したため酒の醸造ができなくなり、店の醸造部門だけを東村山村大字久米(現在の久米川町3丁目)に移転しました。
 ブランドとして有名なのは“金婚”ですが、大吟醸“美意延年”をはじめ、深井戸から汲み上げた富士山伏流水を仕込み水とした、20数品目の酒を造り続けています。その歴史を知れば知るほど、創業からの400年以上の歳月の重みを感じさせます。
 ハッキリ言って、ホームページのほうはあんまり面白くないんですけど、ブログのほうはとっても充実した内容です。ぜひご覧下さいましぃ。

★豊島屋酒造ホームページ
★豊島屋酒造ブログ「酒のさかな。」

スパイスで競う地ソースの街

スパイスで競う地ソースの街
 これはタマタマの偶然なんですけど、東村山市には2つの地ソース製造会社があります。
 1つ目は久米川町3丁目の「株式会社ポールスタア」。会社の設立は1977年ですが、社長の桜井憲一氏の家は3代続く「桜井醤油店」で、歴史をさかのぼれば創業は1850(嘉永3)になるのだそうです。長らく醤油の醸造業を営んできましたが、大手企業の大攻勢でサッパリ売れなくなり、焼肉のタレとソースの製造を手がけるポールスタアに生まれ変わりました。防腐剤や発色剤を使わない無添加ソースにこだわって営業を続けています。新商品の開発にも熱心で、新たな東村山名物となりつつある“黒焼そばソース”“赤焼そばソース”は同社の製品です。
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つ目が恩多町3丁目の「株式会社竹田商店」。こちらの創業は1899(明治22)。最初は酒の小売業でスタートしましたが、1915(大正4)に酢の製造・販売、昭和5(1930)に“謙信公ソース”の製造・販売をはじめました。この“謙信公ソース”が戦後になって“アポロソース”と名を変えました。竹田商店の名前は知らなくても、アポロソースの名前は記憶にあるという人も多いと思います。現在の主力商品は“辻ソース”ブランド。たっぷりの野菜と果実から作られた、大地の恵みがぎゅっと凝縮されたこだわりのソースです。

★ポールスタア ホームページ
★竹田商店ホームページ

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東京都東村山市ですけど何か?

東京都東村山市ですけど何か?
 えー、何度も申し上げますけど、志村けんのオカゲで超有名になった東京都東村山市ですが、実際には日本人の50%以上が東村山市は埼玉県にあると思っているようです。確かに、志村けんがコントで使用している多摩地方の方言は、なーんか田舎っぽいですものね。
 その一方で、西武ライオンズの本拠地としてのイメージが強い、東村山市のオトナリの埼玉県所沢市は、日本人の50%以上が東京都にあると思っているようです。この際、東京都と埼玉県でバーターしちゃえばいいんじゃないかというご意見もあるんですのよね。
 ま、市内に中規模以上の法人企業がほとんどなくて、高額所得者も少なくて慢性的な税収不足に陥っていて、問題山積で年中ヒーヒー言っている東村山市と、開発が進んで商業圏が飛躍的に広がっていて、ハコモノとはいえ豪華な施設がたくさんあって、夏になると西武園で花火がガンガン上がり、ニューヨーク日本人学校の国語の先生もやっていた国際派の市長が改革をバンバンやってる所沢市を比べたんじゃっ、そりゃどーしたって好感度の軍配は所沢に上がりますけどね、正福寺千体地蔵堂のようなまだ誰にも価値がわかってない隠された魅力があるんだゾッと、言いたくなってくるんでございますけどね。
 ケッ、50年後を見やがれってなもんですわよっ。でも、もしアップアップ状態になってたら、お隣のヨシミでどーか助けて下さいましねーっ。


新編東村山かるた〈終わり〉


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